ホメロスの視点

ホメロスの視点

全文

 こぢんまりとしているがなかなか良いよと
聞いていた文学館に立ち寄ってみたその帰り
に、ホームのベンチに座り、以前から頼まれ
ていた案件をそろそろ片付けることにした。
友人に誘われた縁で、以前によく顔を出して
いた集まりから依頼されたものだ。面倒な話
ではあったが、友人の顔を立てるつもりで引
き受けた。謎解きを好む彼の趣味に合ってい
たから嬉しくなったというのもある。最近は
足が遠のいていたが、彼がいなくなった今で
も趣向は引き継がれているようだ。
 歩いているあいだに、おおよそのアイデア
はできていた。文学館に展示されていた書簡
の中に、与謝野鉄幹のものをみつけて、それ
でぴんときたのだ。そうだ、私は歌をテーマ
にしよう。だが鉄幹ではよくない。短歌は長
すぎる。五、七、五でもまだ長い。自由律俳句
の中の、特に短いものから選ぶことに決めた。
 まず思い浮かんだのは山頭火だ。私はス
マートフォンのメモを開く。


 ――まつすぐな道でさみしい
 と入力した。でも、これはいけない。条件
を満たしていない。
 ――笠も漏り出したか
 これもダメ。
 ――音はしぐれか
 これもダメ。
 ――うつむいて石ころばかり
 ダメだ。なかなか難しい。「は」も「か」
も使えないのがつらい。
 じっと考えて、思い当たる。
 ――ひとりきいていてきつつき
 これなら大丈夫だ。――いや、だが待て。
正式な表記では、「いて」ではなく「ゐて」だっ
たはずだ。やはりこういった、甘えた改変は
加えたくない。
 とはいえ、私がそらんじられる山頭火の中
には、条件に合う句がなかった。「どうしよ
うもない私が歩いている」などが使えると素
晴らしいのだが仕方がない、およそ五分の一


といってもずいぶん制限されるものだ。そも
そも濁点は避けたい。
 私は句人を変えて考える。
 ――夜がさびしくて誰かが笑い始めた
 素晴らしい句だが、まったく条件に合わな
い。それに長すぎる。
 ――ずぶぬれて犬ころ
 ふむ。おおよそ条件にはあっているが、や
はり濁点が気になる。
 ――みどりゆらゆらゆらめきて動く暁
 まったくダメ。もちろん、作品の話ではな
い。
 ――墓のうらに廻る
 頭からダメ。
 と、不意に思い当る。尾崎放哉であれば、
あの句があるではないか。
 私はスマートフォンのメモにこれまで並べ
た句をすべて消し、新たに入力する。
 読み替えして、確信した。
 うん。これだ。これしかない。


 尾崎放哉も、まさかこんな理由で自身の句
が選ばれることになるとは、予想もつかな
かっただろう。
 私はひとり、ニヤリとして、軽く咳払いし
てみた。

尾崎放哉の句

ひらがな 実句
せきをしてもひとり 咳をしても一人
はかのうらにまわる 墓のうらに廻る
あしのうらあらえばしろくなる 足のうら洗えば白くなる
にくがやせてくるふといいほねである 肉がやせてくる太い骨である
いれものがないりょうてでうける いれものがない両手でうける
かんがえごとをしているたにしがあるいている 考えごとをしている田螺が歩いている
こんなよいつきをひとりでみてねる こんなよい月を一人で見て寝る
ひとりのみちがくれてきた 一人の道が暮れて来た
はるのやまのうしろからけむりがでだした 春の山のうしろから烟が出だした(辞世)

文中で示されているルールらしきもの

  • 濁点禁止
  • 旧仮名遣い禁止
  • ア段禁止(明記されているのは「は」「か」だけだが,「五分の一」という条件が補強
条件を満たす句は せきをしてもひとり が残る
  • スマホのフリック入力ではないか,という意見登場
    • せきをしてもひとり→右左左左右下左下左
      • 「を」はワ行の2文字目
久瀬に伝え鍵が開きました

豆知識

最初に出てきた文学館は鳥羽みなとまち文学館と思われる
本文に出てきた「与謝野鉄幹の書簡」もあります

  • 最終更新:2014-07-31 03:52:08

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