どこにもいけない男の視点

どこにもいけない男の視点

 一五年前のオレは、どこにでもいるような
中学生だった。そこそこ勉強ができて、愛想
笑いが得意だった。
 オレと同じ人間なんていない。そう叫びた
くなる。でもきっとオレと同じような中学生
はこの世界中にいて、オレと同じように苛立
ちながら、オレと同じようにいろんなことを
諦めている。きっと、そういうことなんだと
思う。


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 親父はそれなりに金を持っていたから、世
間的には不自由のない裕福な家庭にみえただ
ろう。いかにも最近の金持ち風のスタイリッ
シュな家に住み、美味いものの感激を忘れる
くらいに美味いものを食い、いちいちブラン
ドの名前がついた服を着ていた。
 うちの家に足りないものがあるとすれば、
それは母親くらいのものだった。彼女が家を
出たのは、オレがまだ小学校を卒業する前の
ことだ。母はオレを引き取りたがっていたと
聞いている。でももちろん親父はそれを許さ
なかったし、結局オレは、強い主張もなく、
あの家で生活することになった。
 傍からどう見えようが、オレには自由なん
てものはなかった。食事も、日常も、ささや
かな趣味も、すべて管理されて過ごした。
 毎朝、ぴかぴかの革靴を履くたびに、ひど
く気分が落ち込んだのを覚えている。
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 それは心が躍らない靴だった。親父によっ
て整備が行き届いた、でも花ひとつない道を
まっすぐに、同じペースで歩くためだけの靴
だった。
 ――こんなんじゃ、どこにも行けねえよ。
 毎日、ぴかぴかに磨かれた革靴をみるたび
にオレは、内心でそうぼやいていた。


 オレは親父が嫌いだった。
 きっと親父も、オレと同じように不自由な
人生を歩んだのだろう。親父の会社は祖父が
興したもので、あいつはそれをただ受け継い
だだけだ。綺麗に整備された道をまっすぐに
歩いてきたあいつは、オレにもそれを強要す
ることで、自分の人生を肯定したがっている
ようにみえた。あるいは、ゾンビが仲間を求
めて新たなゾンビを生み出そうとしているよ
うにも。


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 オレが親父の葛藤に気付いたのは、彼のい
かにも優等生的な書斎に、一枚の古臭いアル
バムが飾られていたからだ。それはビートル
ズの『アビー・ロード』だった。そのチープ
な彼自身へのアンチテーゼは、彼を一層う
すっぺらにみせた。




 母には、親父に内緒で会っていた。
 それが親父に対する、唯一の反抗みたいな
もので、今思えば自分のちっぽけさが嫌にな
る。堂々と会いたいと言い、堂々と会えばよ
かったのだ。あんな家さっさと出ればよかっ
たのだ。
 きっと当時のオレだって、今と同じように
頭ではそうわかっていた。でもオレはいつも
こっそりと、学校の帰りや、親父のいない休
日なんかに、息を潜めて母に会っていた。も
ちろんあの、ぴかぴかの革靴を履いて。


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 母は誕生日とクリスマスに、オレにプレゼ
ントをくれた。一四年前の冬、欲しいものを
尋ねられたオレは、「スニーカーが欲しい」
と答えた。安っぽい、ぼろぼろに履き潰すた
めのスニーカーが欲しい、と。
 オレは自由が欲しかった。
 どこにでもいける靴が欲しかった。


 ロンドンにあるアビー・ロードはずいぶん
な観光地になっているらしく、ウェブカメラ
で二四時間中継されていた。
 母が出て行った頃から、親父はよくその動
画を眺めるようになった。
「その気になりゃ、オレは明日にでもここに
いけるんだぜ」
 と親父はよく言った。でもあいつがその映
像に映り込むことはなかった。
「いつだってここにいけるんだ」
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 あんたはそこにはいけねぇよ、と内心で応
えながら、オレは愛想笑いを浮かべていた。


       ※


 母はクリスマスに、スニーカーを送ってく
れた。
「たくさん履いて、ぼろぼろにしてね」
 と母は言った。
「また買ってあげるから、好きなだけ走り
(改頁)
回ってね」
 オレは嬉しかった。本当に。それはどこに
でもいける靴なのだと思った。
 でもオレは、そのスニーカーを箱に入れた
ままベッドの下にしまい込んだ。たまに、夜
中にひとり、部屋の仲でそのスニーカーを履
いてみたことはある。でも外にはでかけな
かった。
 オレは親父を怖れていた。
 もしあいつに、このスニーカーのことがば
(改頁)
れたらきっと、ひどく叱られる。すぐに捨て
られてこれはオレのものじゃなくなる。そう
わかっていた。だから履けなかった。
 でも、そんな警戒は無意味だった。
ある日学校から帰ってみると、オレのス
ニーカーはなくなっていた。通いの家政婦に
みつかって捨てられたのだとわかった。
 許せなかった。もちろん。でも。
 ――いつものことじゃないか。
 とオレは思った。


 オレは不自由なんだ。だれだって、どっか
が不自由なんだ。そんなことは知っている。
スニーカーひとつでなにが変わるってんだよ
と、自分の愚かさにぼやく。
 それでも諦めきれなくて、オレはゴミ袋か
らスニーカーを取り出して履いてみた。どき
どきしながら近所をぐるりと一周する。この
まま母親のところに行こうかと、途中で一度
だけ思った。でも結局はすぐに家に戻って、
そいつをまたゴミ袋に放り込んだ。


 ――どこにでも行ける靴、か。
 そんなわけがなかった。それはただのス
ニーカーだった。革靴ではどこにもいけな
かったオレが、スニーカーに履き替えたくら
いでなにが変わるっていうんだ。
 もう諦めていた。オレはきっと親父と同じ
ように、これからも生きていくんだろう。ど
こにでも行けるんだといいながら。どこにも
行けないまんま。
 オレはゴミ袋を固く縛り、隣に揃えて脱い
でいた、ぴかぴかの革靴をまた履いた。


      ※


 夜になって親父が帰ってきた時には、すこ
しだけどきりとした。
 でも家政婦は、スニーカーのことは父には
言っていないようだった。
「なんだ?」
 という親父に、オレはいつもの愛想笑いを


浮かべて「お仕事、お疲れ様」と言った。
 これでいいのだと思った。
 オレは今までと同じように、愛想笑いを浮
かべて生きていけば、それでいいんだ。




  • 最終更新:2014-08-19 19:22:53

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