どこにだっていける男の視点

(本編 2014/8/11 12:20 どこにだっていける男の視点 に掲載)


 一五年前のオレは、どこにでもいるような
中学生だった。そこそこ勉強ができて、愛想
笑いが得意だった。
 オレと同じ人間なんていない。そう叫びた
くなる。でもきっとオレと同じような中学生
はこの世界中にいて、オレと同じように苛立
ちながら、オレと同じようにいろんなことを
諦めている。きっと、そういうことなんだと
思う。

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       ※

 親父はそれなりに金を持っていたから、世
間的には不自由のない裕福な家庭にみえただ
ろう。いかにも最近の金持ち風のスタイリッ
シュな家に住み、美味いものの感激を忘れる
くらいに美味いものを食い、いちいちブラン
ドの名前がついた服を着ていた。
 うちの家に足りないものがあるとすれば、
それは母親くらいなものだった。彼女が家を


出たのは、オレがまだ小学校を卒業する前の
ことだ。母はオレを引き取りたがっていたと
聞いている。でももちろん親父はそれを許さ
なかったし、結局オレは、強い主張もなく、
あの家で生活することになった。
 傍からどう見えようが、オレには自由なん
てものはなかった。食事も、日常も、ささや
かな趣味も、すべて管理されて過ごした。
 毎朝、ぴかぴかの革靴を履くたびに、ひど
く気分が落ち込んだのを覚えている。

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 それは心が躍らない靴だった。親父によっ
て整備が行き届いた、でも花ひとつない道を
まっすぐに、同じペースで歩くためだけの靴
だった。
 ――こんなんじゃ、どこにも行けねえよ。
 毎日、ぴかぴかに磨かれた革靴をみるたび
にオレは、内心でそうぼやいていた。

       ※



 オレは親父が嫌いだった。
 きっと親父も、オレと同じように不自由な
人生を歩んだのだろう。親父の会社は祖父が
興したもので、あいつはそれをただ受け継い
だだけだ。綺麗に整備された道をまっすぐに
歩いてきたあいつは、オレにもそれを強要す
ることで、自分の人生を肯定したがっている
ようにみえた。あるいは、ゾンビが仲間を求
めて新たなゾンビを生み出そうとしているよ
うにも。

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 オレが親父の葛藤に気づいたのは、彼のい
かにも優等生的な書斎に、一枚の古臭いアル
バムが飾られていたからだ。それはビートル
ズの『アビー・ロード』だった。そのチープ
な彼自身へのアンチテーゼは、彼を一層
すっぺらにみせた。

       ※

 母には、親父に内緒で会っていた。


 それが親父に対する、唯一の反抗みたいな
もので、今思えば自分のちっぽけさが嫌にな
る。堂々と会いたいと言い、堂々と会えばよ
かったのだ。あんな家さっさと出ればよかっ
たのだ。
 きっと当時のオレだって、今と同じように
頭ではそうわかっていた。でもオレはいつも
こっそりと、学校の帰りや、親父のいない休
日なんかに、息を潜めて母に会っていた。も
ちろんあの、ぴかぴかの革靴を履いて。

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 母は誕生日とクリスマスに、オレにプレゼ
ントをくれた。一四年前の冬、欲しいものを
尋ねられたオレは、「スニーカーが欲しい」
と答えた。安っぽい、ぼろぼろに履き潰すた
めのスニーカーが欲しい、と。
 オレは自由が欲しかった。
 どこにでもいける靴が欲しかった。

       ※



 ロンドンにあるアビー・ロードはずいぶん
な観光地になっているらしく、ウェブカメラ
で二四時間中継されていた。
 母が出て行った頃から、親父はよくその動
画を眺めるようになった。
「その気になりゃ、オレは明日にでもここに
いけるんだぜ」
 と親父はよく言った。でもあいつがその映
像に映り込むことはなかった。
「いつだってここにいけるんだ」

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 あんたはそこにはいけねぇよ、と内心で応
えながら、オレは愛想笑いを浮かべていた。

       ※

 母はクリスマスに、スニーカーを贈ってく
れた。
「たくさん履いて、ぼろぼろにしてね」
 と母は言った。
「また買ってあげるから、好きなだけ走り


回ってね」
 オレは嬉しかった。本当に。それはどこに
でもいける靴なのだと思った。
 でもオレは、そのスニーカーを箱に入れた
ままベッドの下にしまい込んだ。たまに、夜
中にひとり、部屋の中でそのスニーカーを履
いてみたことはある。でも外には出かけな
かった。
 オレは親父を怖れていた。
 もしあいつに、このスニーカーのことがば

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れたらきっと、ひどく叱られる。すぐに捨て
られてこれはオレのものじゃなくなる。そう
わかっていた。だから履けなかった。
 でも、そんな警戒は無意味だった。
 ある日学校から帰ってみると、オレのス
ニーカーはなくなっていた。通いの家政婦に
みつかって捨てられたのだとわかった。
 許せなかった。
 それはたぶん、水滴が一粒ずつ落ちて、溢
れ出す最後の一滴みたいなものだったのだと


思う。
 管理された、なんの自由もない、ただ安定
した、どこにもいけない生活に、我慢ができ
なかった。
 オレのスニーカーはゴミ袋につっこまれて
庭のポリバケツの隣にあった。オレはそれを
取り出す。ふざけるな、と内心で叫び声を上
げる。こいつを汚していいのはオレだけなん
だ。こいつはオレの宝物なんだ。勝手に人の
もんゴミにしてんじゃねぇよ。

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 オレはぴかぴかの革靴を脱ぎ捨て、ゴミ袋
に突っ込む。それからスニーカーに足を通し
た。ぎゅっと靴紐を結ぶ。それは初めからオ
レの身体の一部分だったみたいに、ぴったり
と馴染む。
 ふざけるな。オレは自由だ。
 そう叫びながら足を踏み出す。
 ほんの一歩。とたん、辺りの景色が一変し
た。いつの間にかオレの目の前には親父がい
た。何度かみたことのある、親父の会社の社


長室だ。親父はデスクに座り、驚いた風にこ
ちらを見上げている。
「あんたとは違うんだ」
 オレは親父に指をつきつける。
「オレは、どこにでもいけるんだよ」

       ※

 そのプレゼントが「ニールの足跡」と呼ば
れることを、オレは後になって知った。

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 ほんの一歩。それだけで、どこにだってい
けるんだ。
 オレは翌日、アビー・ロードのウェブカメ
ラに向かって指をおっ立てて、そいつを金属
バッドで叩き壊した。『マックスウェルズ・
シルヴァーハンマー』を口ずさみながら、笑っ
て。
 その風景を親父がみていたのかは知らない。
どうでもいいことだ。
 オレは自由だ。


 どこにだって、いけるんだ。



  • 最終更新:2014-08-15 03:32:03

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